「天に二日無く、土に二王無し」(『礼記』)という言葉を嘲笑うかのように、三世紀の中国には三人の皇帝が並び立つ「三国志」の時代が現出しました。日本では卑弥呼の時代にあたります。当時の「史実」は、ほぼ同時代史である晋・陳寿『三国志』の本文に、南朝宋・裴松之の注を加えた形で現在に伝わります。その「史実」から様々な「物語」が派生して、実在の人物たちはキャラクター化してゆき、やがてそれらは明代の長編白話小説『三国志演義』に集大成されます。
私は『三国志演義』を主な対象として、以下の三つのアプローチで研究をしています。
一つ目は、版本系統の比較研究(テキストクリティーク)です。明代の書肆が競って出版した『三国志演義』は、四十種を超える版本が現存しています。それらの版本を精査することで、「三国志」の「物語」が辿り着いたアウトラインを把握することができます。
二つ目は、小説『三国志演義』の成立史を辿ることです。「史実」に端を発する「三国志」は、詩文、民間芸能、民間信仰、戯曲、地方志といった様々な分野で、数多くのストーリーやキャラクターを涵養してゆきます。時代とメディアを跨がる書籍の渉猟とともに、各地に伝わる伝承や郷土史を採集し、「三国志」の受容史を複合的に構築することを目指しています。
三つ目は、受容史という視点を現代中国と日本にまで伸ばした延長線上にあります。小説、映画、TVドラマ、マンガ、ゲーム、WEBでの二次創作まで、コンテンポラリーな「三国志」の展開を追跡することによって、古典から現代への時代を超えた継続と断絶、中国と日本という地域を超えた継承と新たな創作というサブカルチャーの諸相をリサーチしています。
1800年間の長きにわたり、連綿たる受容と再生産の過程を有する「三国志」という巨大コンテンツは、時代、地域、受容層(メディア)による多様なソートの可能性を提供してくれる膨大な素材の集積体です。三つのアプローチには、いずれも「史実」と「虚構」の揺らぎへの関心が存在します。ときに歴史的な「事実」ではない「虚構」に、人々はいかにして切実な「真実」を託し、「物語」を育み続けてきたのか。私の研究志向の基幹は、一つきりであるはずの「事実」に、様々な「真実」が付与されてゆく様相の探求にあります。