啓蒙時代のドイツ語圏の音楽、とりわけW.A.モーツァルト(1756-1791)の作品について研究を進めています。音楽作品の研究にはさまざまなアプローチの方法がありますが、私がとくに力を入れているのは、手稿譜の文献学的・古文書学的調査です。700曲を超えるモーツァルトの楽曲は、作曲者自身が書いた自筆譜、同時代の写本(筆写譜)や初版譜など、さまざまな形態の楽譜史料によって今日に伝えられてきました。楽譜というと、一般の人にとって馴染みがあるのは、音楽書店で入手できる現代の印刷楽譜でしょう。しかし、モーツァルトの創作をめぐる諸問題を解明するためには、上記のような歴史的な楽譜(オリジナル楽譜)の調査が欠かせません。
西洋の芸術音楽の手稿譜は、作品を記録し他者に伝えるだけのものではなく、楽譜それ自体が「創作の場」になっている点に大きな特徴があります。モーツァルトに関していえば、5歳から創作を開始した天才というイメージが定着し、何の苦労もなく頭の中で作曲を終え、いきなり完成形の楽譜を書き下ろすなどといわれますが、実際の自筆譜を見てみると、修正個所はきわめて多く、斜線で消された部分に、完成形と全く異なる音符が記されていることも珍しくありません。またモーツァルトは大規模な作品や複雑な書法の作品を作曲する際には、いきなり総譜(スコア)を書かず、楽想の断片を記したスケッチや下書きを準備し、時間をかけて作品の構想を練っていました。それらも含めた自筆譜を詳細に検討することにより、作曲家の思考の推移や創作プロセスを辿ることができるのです。
手稿譜の研究では、そうした音符内容だけでなく、楽譜の筆跡、紙の形状や透かし模様、インクの色、五線の段数や幅などのデータもきわめて重要で、作品の真偽判定、成立年代の推定、受容史の解明などに役立ちます。私が近年とり組んでいるのは、モーツァルトが実際に演奏会で使った筆写パート譜の体系的な研究です。モーツァルトはオペラ、教会音楽、交響曲など、オーケストラ編成の楽曲を演奏する時には、専門のコピスト(写譜師)に頼んで、個々の演奏者用のパート譜をつくらせていました。興味深いのは、できあがったパート譜に作曲家がしばしば手を加え、作品を改訂していたことです。それらの改訂内容は、大本の自筆スコアには反映されず、パート譜の中にだけ記されている音符なのです。モーツァルトがいつ、どのような状況下でその作品に手を加えたのか、その意図はどこにあったのか。それをつきとめることで、モーツァルトのリアルな音楽活動にせまることができます。これまで軽視されてきた筆写パート譜の研究は、とりわけ謎が多い彼の晩年の活動に、新たな光を当てることになると考えています。