19世紀後半の作家個別研究に一貫して取り組んでいますが、私のこれまでの研究活動を導いてきたのは学部生のころに抱いていたシュルレアリスム(超現実主義)に対する関心です。シュルレアリスムの主導者であったアンドレ・ブルトンは、19世紀には「社会的なものにせよ精神的なものにせよ、与えられた生を拒否する態度」があるとして、シュルレアリスムが掲げる革命思想の源流にロートレアモンとランボーを位置づけます。当時の私は、シュルレアリスムを理解するためにはこの二人の詩人を徹底的に読み解く必要があると悟り、ロートレアモンやランボーのテクストと格闘を繰り返します。しかし、語られる言葉のインパクト以上に「難解さ」の暗闇に打ちのめされるばかりでした。ロートレアモン『マルドロールの歌』の作品構造を「語り」と「誘惑」の観点から分析した博士論文は、その暗闇に光を照らす試みがもたらした成果といえます。ロートレアモンに次いで研究対象としたのは、ブルトンが精神的な意味で「いちばん縁の浅からぬ相手」としている小説家ユイスマンスです。研究を進める過程で、自然主義の作家として出発したユイスマンスにおいては、レアリスムが神秘的なものと通底していること、とりわけ、美術批評のなかで絵画という「可視なもの」とそれとは対立するはずの「不可視なもの」との関連性がつねに強調されていることに着目しました。写真の登場とともに、レアリスムは視覚的現実(可視)と心的現実(不可視)の双方に関わる複雑な問題となっていきますが、ボードレールの美術批評を研究の射程に入れるようになったのは、ユイスマンスがまさにその問題をボードレールから継承しているからです。ボードレールが『1859年のサロン』で写真批判に続けて展開する想像力論は、想像力を「諸能力の女王」、すなわち外界(自然)から受ける諸々の知覚を統御する機能として定義しながら、視覚的な再現にすぎない静態的レアリスムを否定し、力動的レアリスムの可能性を示唆しています。こうしたレアリスムをめぐる議論を集約するものが、ボードレールのいう「シュルナチュラリスム(超自然主義)」にほかなりません。それが20世紀のシュルレアリスムと無縁ではないことは明らかで、その二つを美術論の枠組みのなかで比較検討することが今後の研究課題です。