現代社会ではスマートフォンやタブレット端末の普及が進み、読書の形態も多様化してきました。一方で、私たちが作品を享受するとき、それがどのような形態であっても、なんらかの媒体を介していることは普遍的です。作者が書いたものが読者や聴き手に届くまでには、それを「書物」として成り立たせる支持材料が存在します。また同じ作家の同じ作品であっても、標題紙や目次、挿絵の有無、書体や文字の大きさ、判型や形態など、書物によって特徴は異なります。さらにはメディアや時代の変化にともない、同じ作品のテクストが変わることも多々あります。つまり作品を読むということは、文字を辿って意味を抽出する行為にとどまりません。ロジェ・シャルチエのことばを借りるならば、「書かれたものの理解は、どんな場合でも、それが読者に達する際にまとう形態に部分的に依存する」のです(『書物の秩序』長谷川輝夫訳)。
このような問題意識を出発点として、私は中世英文学を書物文化史の観点から研究しています。具体的には、15世紀から16世紀初頭のイングランドにおいて、作品が写本や印刷本を媒介としてどのように生成され、伝播し、読者に受容されていったのかについて考えてきました。中世ヨーロッパの書物生産は手書きによるものが基本でしたが、15世紀半ばに入ると活版印刷術が登場しました。かつては活版印刷術の誕生は「印刷革命」と称され、写本文化とは分断的に捉えられていました。しかし初期の印刷本には中世写本の伝統が色濃く継承されています。私は両方を視野に入れ、それらをマテリアリティとテクストの面から分析し、書物生産の実際や作品受容の理解、書物を通して社会や宗教の変化を読み解くことを試みています。
現在は13 世紀後半にドミニコ会士ヤコブス・デ・ウォラギネが編纂したLegenda aureaの英訳版The Golden Legend(1483/4)を研究の主軸に据えています。欧米諸国とニュージーランドの図書館に出かけて資料の調査を重ね、時にはデジタル技術も援用し、その成果の一部をイギリスから校訂版としても出版します。こうした現地調査の過程において、海外の諸研究機関で多くの友人との出会いに恵まれたことも、私にとって大切な宝です。地道に事例研究を積み重ね、断片的だった情報を有機的に結びつけることで、写本と印刷本文化の併存・移行期における書物をめぐるネットワークを立体的に描き出していきたいと考えています。