ドイツ語を中心に言語を研究しています。ドイツ語と日本語はまったく違う言語ですが、同じ世界を表象し、それを伝えるしくみという意味では共通した働きを持っています。一方で、ドイツ語と日本語は、語彙はもちろん文法も全然違っています。日本語で「兄」は、ドイツ語ではまったく違った形を持った「Bruder」と表されますが、その際、「兄 = Bruder」ではありません。また、Bruderは、文法的には男性名詞に分類されます。ドイツ語では無生物の名詞も文法の性を持ちますが(例えば机(Tisch)は男性)、日本語にはそのようなしくみはありません。また、日本語には冠詞もありませんが、ドイツ語の名詞は英語と同様に定冠詞、不定冠詞、無冠詞の三つのパターンで用いられます。
この語彙そして文法の違いはどこから来るのでしょうか。無限のモノを表すためには理論的には無限の語彙が必要なはずですが、そんな言語はありません。一つのモノに一つの名前という「ぜいたく」は固有名詞に限られ、普通の名詞は一つでたくさんの共通したモノを表します。つまり、私たちは世界の無限のモノを共通した特徴を用いた「類概念」の集合として把握しています。言語によって世界は切り取られているのです。この「切り取り」の仕方は言語ごとに異なっていますが、その違いは「切り取り方」にあるのではなく、「切り取りの抽象度」にあります。例えば「兄」は「自分の親の男の子ども」で自分よりも「年上」のモノを切り取りますが、Bruderは、「年上」という要素は含まれないレベルを切り取っているのです。この切り取られたモノは、さらに現実世界の対応物と結び付けられる必要があります。そうでなくては具体的なモノに言及できません。そのための手段が文法です。無数にある「Bruder」の中から、私の(mein)、その(der)、ある(ein)など、冠詞という文法手段を用いて具体的なモノが特定されます。定冠詞は、対象を指し示す指示代名詞から発達したもので、モノを直接指し示します。一方で、不定冠詞は名詞の性質面を強調し、どのようなモノであるかを描写することによってモノを規定します。このように同じモノはさまざまな観点から規定されますが、そのうち具体的な一つの現れが言語化されます。これは、私たちがモノを見る時に必ず特定の角度から見ますが、これと同じことを言語でもやっているのです。
このようにドイツ語や日本語のしくみを探るということは、私たちが世界をどのように切り取り、そしてその切り取ったものをどのような角度から見ているのかということを記述することにあります。ドイツ語と日本語は、切り取り方やその見方は違っていますが、その違いは程度問題で、基本的に非常に類似したしくみになっています。言語を学ぶことは、根源的な意味でいろいろなモノゴトの見方を学ぶことなのです。
(2024/4/1)