昔話をすると、私は心理学が勉強したくて大学に入りました。しかし大学を卒業するころ、私の関心はむしろ哲学や論理学に向かっていました。それで、哲学を学ぼうと大学院に進みました。大学院ではウィトゲンシュタインを専門に研究されている先生に就きました。ウィトゲンシュタインのテキストを大学院でたくさん読みましたが、私の修士論文は、思想史方法論や歴史叙述の哲学をテーマとした(ウィトゲンシュタインと無関係な)ものになりました。それでも私の先生はいつも真剣に私の報告を検討し、適切な指導をしてくれました。
博士課程進学後、歴史について考えているうちに、過去の出来事や行為を記述しそれらを評価するとはどういうことかといった問題に興味を持ちはじめました。さらに、そもそも行為とは何か、出来事とは何かということを考えるようになりました。そしていつのまにか出来事論と呼ばれる現代形而上学の一分野を専門とするようになっていました。二十世紀末の日本の分析哲学的伝統にあって「形而上学」の看板はまだまだ偏見の対象でありましたため、私は、心の哲学や、因果性理論、言語の哲学の一部など、形而上学のサブジャンルにあたる研究を専門に加えることで、自分が「形而上学者」であることを(語らずに)ほのめかそうとしました。またそれとは別に、行為に対する興味から、行為論や、合理性の哲学、価値論といった分野も自分の専門領域とみなすようになりました。
上記の諸領域のテーマはいまでも私の研究テーマです。ただ、振り返ると、揺るぎない確信のもとで探究を続けてきたというよりは、偶然のめぐり合わせとそのときの気分に従って自らの研究テーマを選んできたような気がします。たとえば、結局なぜ自分がウィトゲンシュタインにはまらなかったのかもよく分かりません。
「領域横断的な共同研究」についていえば、現在私は、実際にロボットを作る工学者や、実験心理学者、異なる流派の哲学者たちとともに、科研費に基づく共同研究を行なっています。そこでは、哲学者として、人工的な知性──そのようなものが実現するとして──との「共生」や「コミュニケーション」、あるいはそれらが持ちうる「心」や「言語」といったものについて、根本的なところから問いを発しようと心がけています。
それから私は、自分と関心のまったく違う大学院生の人たちとディスカッションすることから、多くを学んできました。最近だんだんそのための時間が取れなくなってきていることに危機感を覚えてはいますが。
(2023/4/1)