「世界はこれすべて舞台なり」というシェイクスピアの言に象徴されるように、私たちは日々の生活において俳優・演出家・観客のように振る舞っています。望む望まざるにかかわらず、私たちは演劇的な世界に生きています。
このような考え方に違和感をいだく向きもあるでしょう。そして次のように反論したくなるかもしれません。私たちは普段、俳優のように振る舞っているわけではないもないし、観客として何かを見ているわけでもない。私たちは「ごく自然に」「自分らしく」暮らしているだけである、と。近年の演劇学は、まさにこの自然・自分らしさと思えるものに虚構の要素が巧みに入り込み、私たちを知らずして演劇的な世界に巻き込む状況を多角度から探究することで、人間観や世界観を根底から問い直しています。この状況は、見る・聞くなどの知覚行為から、振る舞いや行動、語りなどの能動行為にいたるコミュニケーション全般に当てはまります。
「見る」行為を例にして、この状況について説明してみましょう。私たちが何かを見るとき、その視線はすでに特定のイメージや枠組に条件づけられています。何かを見ようとする行為は、自分の意思に先んずる何かに規定されうるのです。この何かは、ヨーロッパの場合、劇場やメディア技術の発展とその効果にあると言われています。近代に入りヨーロッパ市民が定期的に観劇を行うようになると、遠近法と枠組を踏まえた奥行きのある舞台が多くの劇場に据えられました。この舞台設定は、観客が舞台上の人物を自分の座席から十分に観察することを可能にしましたが、同時にそれは、個々人が世界を自分本位で見て考えるという個人の主体性を促進したと指摘されています。近代人の主体的な受容行為と思考は、枠組や遠近法に基づく演劇的な装置に導かれるようにして発達したのです。