私の研究課題は大きく二つです。一つは西洋哲学史研究に関係し、もう一つは現代哲学の一分野に関係します。
一つ目はトマス・アクィナス研究です。トマス・アクィナスは高校の世界史でも出てくる『神学大全』を書いた13 世紀のイタリア人で、キリスト教とくにローマ・カトリックの思想において重要な貢献をしたとされる人です。私はこのトマス・アクィナスの思想を哲学の方面からできるだけ整合的に理解したいと思っています。一般にスコラ哲学と呼ばれるキリスト教神学が何だったかということについてはさまざまな解釈が可能でしょうが、人間理性をその限界まで使って宗教的な事柄をなんとか理解可能なものにしようとする試みであったと言うことができるでしょう。
その際、トマス・アクィナスが人間理性の枠組みとして使ったのは古代ギリシアのアリストテレスの哲学でした。当時、イスラム世界を経由してヨーロッパにアリストテレスのほぼ全体像が伝えられて大きな衝撃を与えましたが、トマスもその例外でなく熱心にアリストテレスを研究して膨大な注解を書きました。そして驚くべきことにトマスは三位一体論やキリストの受肉などの深く宗教的で神秘的とも言える事柄を大胆にアリストテレスを使って説明しようとします。
おそらくトマスはごく若い時期にアリストテレスに触れたとき、それがキリスト教の教義の中にある困難な箇所を説明する力をもつことを見抜いたのでしょう。トマスはアリストテレスというツールを用いてキリスト教の世界観をモデル化することに夢中になりました。『神学大全』をはじめから読んでいけば、トマスが次々とキリスト教の難しい教義をアリストテレスの枠組みに移し替えていく様子を見ることができます。
たとえば「神が存在する」とは「原因の系列を無限に遡れない」という哲学的事実の宗教的な表現です。また神が「在りて在るもの」だという聖書の言葉は「世界をすべて説明し尽くすことはできない」という哲学的事実の言い換えです。そして本質は一つである神が父・子・聖霊の三つのペルソナをもつという三位一体論は、アリストテレスのカテゴリー論を用いて第一実体である実在的関係として説明され、キリストにおいて神と人間の二つの本性が共存するというキリスト両性論は、同じく神のペルソナという第一実体に第二実体である人間本性が受容されることだと論じます。どこにでも自由にアリストテレスが顔を出し、それはまるで新しいおもちゃに夢中になった子供のようでもあります。
トマス・アクィナスの思想はその存在(エッセ)の意味について大きな解釈上の困難を抱えていますが、私は以上のようなアリストテレスの枠組み、とくに第一実体に着目することで、より正確で整合的なトマス解釈ができるのではないかと考えています。
二つ目は英米系の現代認識論です。知識とは正当化された真の信念であるという標準分析に始まるこの分野は比較的新しい哲学の分野ですが、その誕生以来一貫して大きな注目を集めさまざまに展開しています。ゲティア問題は標準分析が不十分であると主張しますが、それを補うために何が必要かについて大きな論争が沸き起こりました。偽の信念を認めないことや、示された証拠が阻却されないことなどの条件が検討されていますが議論は終息していません。他方で、証拠という内在的な要素ではなく因果関係や信頼性といった外在 的な要素を重視する人々は新たに外在主義を標榜し知識の理解を大きく変えることを試みました。この試みはある程度成功しているように見えますが、素朴な因果説や信頼性主義には致命的な反例があることがわかっていて、理論として自立していません。
現在では証拠主義のような内在主義的要素と信頼性主義のような外在主義的要素の両方を取り入れた徳認識論と呼ばれる理論がもっとも有望だとされていて、わたしも興味を持って徳認識論の展開に注目しています。また、ゲティア問題から徳認識論へいたる流れから少し離れたところに文脈主義をめぐる論争がありますが、知識の本性を考える上で、知識文が持つ独特の文脈依存性は興味深い研究対象です。私の現在の考えでは、知識とは真理や事実を獲得するという実践的目標を達成するための認知的徳から生じ、そのような徳によって説明される真の信念を指すのではないかと思っています。この理解の細部を整備すること、具体的にはその場合の認知的徳がどのような構造をもち、安全性などの条件がどのように組み込まれるべきかを検討することが現在の研究課題です。
(2020/04/01)