日本の近現代文学について、主にジェンダーやセクシュアリティの観点から研究しています。私が関心を持ってきたのは、社会の中での不公平な位置が、ある種の自己実現だという肯定的な認識によって当人に受けいれられてしまうしくみと、だからこそ、社会的に承認されない作家未満の書き手たちです。
例えばかつて女性には、文学が向いていると言われて、進学先や真摯に取り組むものを得ながら、職業にすることは困難な状況がありました。充実した閉塞とでも言えましょうか。そして、そうした状況の形成には、職業であるのに優雅な趣味のようにもみえる文学自体のイメージが、二枚舌的に大いに利用されていたのです。こうした問題意識は、私自身が学生であったときの、たのしくも疑問も多かった文学部体験から発しています。文学作品の一つ一つは、社会の常識を変える勇気ある挑戦ですが、今ではそうした観点だけでなく、人々が持つ文学イメージが、どのように社会的抑圧を助長するのかを意識することも、特に過去の文学を扱う際には重要だと考えています。
執筆によって夫より高い収入を得た田村俊子や林芙美子が、どのようなバッシングを受け、作風を調整して、作家としてサバイバルしたか。太宰治が、一般女性の書いた文章に手を加えて自らの作品として発表した際、最も魅力的な作中女性に〈昇華〉するために抹殺されたのは、書き手女性の何であったか。川端康成の文章指導が、女性を称賛しながら、女性作家が一人も誕生しないのはどうしてか。これらは力による支配というよりは、愛の実践として現れるので複雑であり、からめとられるのは女性や異性愛者であるとも限りません。
過去の文学的価値が引き渡される場合、こうした構造も一緒に差し出されています。このことに驚くとき、過去の検討や埋もれた書き手の発掘は、現在の自分をとりまく状況への考察となります。文学研究は、対象化が同時に参加につながる特異な行為だと思っています。
(2020/04/01)