メディアは「歴史的アプリオリ」として私たちの記憶、思考、判断、芸術表現、情報伝達等を規定しています。私の研究は、文化がいかにメディアに規定されているかを問うものです。人間にとってアプリオリ(=先験性)となるものが歴史的である、という見地がメディア論の根底にはあります。
私の研究は、ヴァルター・ベンヤミンを読むことからスタートしました。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」などの著作で知られるドイツの思想家です。まず着目したのは、彼が「写真小史」という論文を書いたほぼ直後に、自伝を書きはじめたことです。ベンヤミンの自伝『ベルリンの幼年時代』は、写真というメディアを理論的に考察したすぐ後に書かれたのです。つまり、自分の過去を想起するにあたって、写真という19世紀に発明された記憶メディアの影響力を強く意識しつつ書かれた自伝なのです。この点において、写真の発明以前に書かれた自伝であるルソーの『告白』やゲーテの『詩と真実』とはっきり異なっています。それでは、写真という—私たちにとってあまりに自明で日常的な—記憶メディアを前提とする自伝は、写真以前の時代に書かれた自伝とどのような違いがあるのだろうか? 博士論文では、この問いに答えるために、20世紀の5人の作家の自伝を、写真との関係から読み解きました。
このような研究にあたって私が依拠しているのは、1980年代からドイツで隆盛したメディア論です。ここで言うメディアとは、新聞やテレビのようなマスメディアだけでなく、より広く、記憶や情報伝達や芸術表現を媒介するさまざまな技術のことです。言いかえれば、コミュニケーションを可能にする技術的前提であり、そうであることによって、そのつどのコミュニケーションの在り方を規定するものです。そうであるならば、さまざまな芸術や情報伝達において何が伝えられているのか、を考えるためには、それを伝えているメディアがどのような性質のものか、を把握する必要があります。メディアにはそれぞれ特徴があり、その特徴によって可能になる伝達が左右されるからです。
このようなメディア論が、とくにドイツで発展したのはけっして偶然ではありません。ドイツにはメディア論が発展するための思想的な土壌として、観念論哲学の伝統があります。哲学者カントは、人間が世界を感知するためのアプリオリな形式として時間と空間があると主張しました。カントが時間と空間を抽象的にとらえ、永遠不変のフォーマットとして想定しているのに対して、メディア論は、時間と空間がメディア技術の発達とともに、歴史的に変容してゆく様をとらえ、メディアを、知覚やコミュニケーションを規定する「歴史的アプリオリ」として把握しようとします。
ドイツのメディア論が、フライブルク大学で学んだ研究者(フリードリヒ・キットラーやマンフレート・シュナイダーなど)によって立ち上げられたのも、やはり偶然ではないでしょう。元同大学総長のハイデガーの哲学、とくにその技術論が、ドイツのメディア論に大きな影響を与えています。ハイデガーによれば、現代テクノロジーは、もはや人間が自然を支配するための道具ではなく、むしろ逆に人間の存在を規定するものとしてとらえるべきものです。ドイツのメディア論を代表する理論家キットラーが、「メディア史とは存在史にほかならない」、と主張するとき、まさに人間の存在のあり様が技術によって規定されているというハイデガーの技術論を継承しています。
私は文学研究者として、メディア論を援用しながら文学作品を読み解く実践を行う一方、メディア論自体を研究の対象とし、ドイツ思想史のなかでそれを位置づけ、その系譜を描くことをめざしています。また、日本ではほとんど受容されていませんが、ドイツのメディア論はキットラー以降もさまざまな展開を見せています。その動きをフォローし、研究に取り入れるよう努力しています。なかでも近年とくに力を入れているのは、文学と法の関係をめぐるメディア論です。法と正義を区別し、『ドイツ悲劇の根源』のギリシャ悲劇論でそれを展開したベンヤミンが、ここでも重要な参照点となります。
(2020/04/01)